楽しい一日でした。

紅白の桃の花が交互に北斎美術館前に街路樹
として植えられていました。

陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため寛政五年(1793)、時の老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。

江戸市民に知られていたこの矩形の板石の塔は、正面に小作りながら端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という大字が刻まれています。

最後の雑炊が美味しいかった

ちゃんこ鍋の店内


















公園の隅にある井戸は「みしるし洗い井戸」。これは

赤穂浪士が打ち落とした吉良の首を洗ったものらしい。

店内に土俵がありました
























































































































 吉良家は江戸幕府において儀式や典礼を司る高家筆頭であった。しかも「忠臣蔵」の物語の中では、浅野内匠頭に賄賂を要求したりとがめついイメージがある。その屋敷は相当の規模だったろう。
 ところが、現在の吉良邸跡はかなり狭い。これではとてもじゃないが47人が討ち入ることはできそうにない。現在の吉良邸は29.5坪(約98u)で、当時の1/86の規模に過ぎないのだそうだ。現在はだいぶ離れてしまっているが、討ち入り当時は回向院とも接していた。

吉 良 邸 跡

日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。

やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。

力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています

鼠小僧次郎吉の墓
































力塚と回向院相撲

塩地蔵

一言観音は、そもそも南都(奈良)唐招提寺の像と同じ木で彫られたもので恵心僧都源信作と伝えられ、また「近世江戸三十三観音参り」の二十七番札所(「江戸砂子」)として馬頭観音と共に庶民の信仰を集めていました。






































































本尊阿弥陀如来

回向院の御本尊阿弥陀如来は、かつては本堂を背にして露天に安置されていた、いわゆる濡仏さまでした。

通称「釜六」(釜屋六右衛門)の作で、宝永二年(1705)に安置され、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像でその慈悲に満ちたふくよかなお顔に特徴があります。また、都有形文化財にも指定されています。

2017.4.1

勝海舟生誕の地で!




















関東大震災供養塔

当院と庶民信仰の関わりを称す像として左の地蔵菩薩があります。右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。

腐食がひどく年代など判明しませんが古いもので、「東都歳時記」所載の江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りには、その四十二番目として数えられています。

すみだ北斎美術館








かつて回向院境内には、観音堂や鎮守堂、太師堂などが建立され、数多くの尊像が安置されていましたが、関東大震災をはじめとした震災等により木彫の諸尊像はことごとく焼失し、石仏、銅仏等の諸尊像のみが残っています。現存のもののうちその一部を紹介させて頂きます。

水子塚

一言観音像

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。